2018年(平成30年)3月某日の午後。場所は加子母中学校の校長室。いただいた引継書の最後のページには、「『歌舞伎』出演の依頼がある。(出演すると)地域の方々は喜ばれる。7月から9月の公演まで合計で20日ほどの稽古がある。」と書かれている。

 すべては、ここからはじまった。今までほとんど真剣に観たことの無い歌舞伎の世界。全くの素人の私に務まるのか。引継ぎの終わった帰り道、大変不安に思った記憶がある。

毎日の忙しさのために忘れかけていた頃、秦さんからお誘いが「校長先生、歌舞伎に出ていただけますね。」

「依頼があったら、できる限り引き受けるといいですよ」と、前任の高木校長先生に言われた言葉を思い出した。そして何より、4月の着任の挨拶。全校生徒の前で、「私の好きな言葉は、『感謝』と『挑戦』です。」と言った手前、断ることはできなかった。

「不安でいっぱいですが…、私にできることならやります…」

と、とても歯切れの悪い返事をしてしまった。そして、ますます不安になった。

 6月、顔合わせ。場所は白寿荘。台本をいただく。表紙には「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ) 稲瀬川勢揃いの場」。通称「白浪五人男」と言うらしい。ぱらぱらと中を見ると、なにやら長い長い台詞が・・。これは大変そうだ。

初対面の松本団女師匠と丁寧にあいさつを済ませる。そして、師匠から優しい笑顔で一言。「清水校長先生には、赤星十三郎をやってもらいますね。」

 それからは、通勤途中の車の中では台詞の入ったCDをかけ、トイレでも、お風呂でも、時には寝ながらも、とにかく台詞を覚えることに必死。頭の中の三分の一くらいは常に歌舞伎。覚えたはずの台詞も、稽古が始まると出てこないことたびたび。さらに、ふりや立ち回りもどんどん増えてくる。それでも、不思議と稽古は苦痛では無かった。その理由は・・・

 加子母の歌舞伎に関わる方々は、どの方も褒め上手。あれ姿勢がよいだの、声がよいだのと、とにかく褒めまくる。上手くいかず落ち込むことも多いが、これらの言葉に励まされ、気持ちのよい時間が過ぎていく。歌舞伎の稽古にいくと、自己肯定感がこれでもかというくらいアップする。だから、「また稽古に行こう」と、明治座に足が向かう。

 9月の公演当日。これまた何もかも初めての経験。

 楽屋で待っていると、そろそろ準備に入るからと呼ばれ、まず化粧部屋へ。手に油をもらい、手のひらで熱くなるまでこすり合わせる。周りの人の様子を見ながら、顔や化粧する首筋などの部分にこの油をよくのばして塗る。化粧がよくのるためにはとても大切な作業なのだそうだ。そしていよいよ化粧。だんだん自分が変わっていくような感覚がする。鏡を見て、今までの自分では無いことを確認した。

 それから開演までは、ばたばたとあっという間に時間が過ぎた。着物を着て、カツラをかぶり、刀を差し、下駄を履き、唐傘をさすと赤星十三郎が出来上がる。花道奥の鳥屋(とや)で出番を待つ。緊張も最高潮。しかし、もうここまで来たらどうにでもなれと腹をくくり、花道を進む。

 最後の決めポーズ。大きな拍手と共に幕が閉まった。どうやら最後まで上手くいったようだ。団女師匠の「今日が今までで最高の出来でしたよ。」の言葉にほっとした。大きな安堵と、少しの達成感を感じた。こうして一年目が終わった。

 振り返ってみると、一つの舞台が出来上がるまでに、表に裏にものすごく多くの方が関わっておられる。前日の準備から、当日の昼食のカレー作りなど、地域の方もボランティアで支えてみえた。当たり前のことかも知れないが、この事実に改めて気付いた。たくさんの支えのおかげで、役者は安心して自分の役を演じることに集中できる。たとえ台詞を忘れても、陰からさっと声がかかる。黒子の方の素早い動きも重要である。一人一人が自分の役割に責任をもちながら、互いにしっかりと支え合っている。よりよいものにしようという目標に向かう、本物の強い組織だからこそ、舞台の上で「一人では無い」ことを実感できるのである。

 さて、二年目。時代も令和となった。

 「今年の歌舞伎公演では、校長先生は口上をやるそうですよ。」と、どこからか噂が聞こえてきた。しかし、「時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ) 本能寺馬盥(ばだらい)の場」の台本をいただいた。役は森蘭丸。当時18歳だったという。一番難しかったのは、やはり18歳という年齢らしい若々しい声。団女師匠からは、「もっと声を張って」と繰り返し指導していただいた。

 9月の公演当日は、昨年の経験もあり少し余裕がもてた。今年初めて口上として舞台に上がった加子母小学校の坂田校長と、楽屋で談笑する時間もあった。出番が近づき、昨年と同じように、化粧、着付け、・・と時間が流れた。

幕が開き、いよいよ花道を進む。「こーちょー(校長)!」のかけ声に、応えようか少し迷ったが、気を取り直しそのまま進んだ。舞台の上では、次の台詞や動きのことで頭の中はいっぱいいっぱいだったが、ほんの少しだけ、客席で楽しんで観ていただいている様子をうかがうことができた。

 今年も、短くも中身の濃い、熱い「加子母歌舞伎の夏」が過ぎようとしている。

 縁あって加子母に赴任させていただいたこと、地歌舞伎に出会うことができたこと、歌舞伎を通して多くの素晴らしい方々に出会うことができたこと、そして充実したワクワクした時間が過ごせたこと、すべてに感謝である。      清水 辰弥

記事提供:かしも通信